言葉の横溢
引越しの荷造りをしていたときのことであった。
妻が自分の本をダンボールに入れて封をした。中身が何かわかるよう、妻はダンボールにこう書いた。
本
まあそう書くだろう。しかし、本と書くだけでは私の本なのか妻の本なのか、ダンボールを一目見ただけでは区別がつかない。
妻は鋭くもすぐさまこのことに気がついた。妻の名はハム美(仮称)である。妻はダンボールに文字を書き足し、ダンボールの表記を以下のように修正した。
H 本
なんということだろう。先ほどの問題は回避できたかもしれないが、今度はダンボールのなかにエッチな本が入っているかのような印象を与えてしまうという別の問題が生じてしまった。
念のため妻に確認したが、エッチな本は含まれていないとのことだった。そうであればこの中にエッチな本が入っているとの誤解は回避せねばならない。
私はダンボールに文字を書き足し、表記を以下のように再訂正した。
H 本(健全)
これで一安心と思ったのも束の間、まだ問題を孕んでいることに気がついた。これでは、これを見た引越し屋さんに「エッチな本なのに健全…???」と無用な混乱を与えてしまいかねない。これでは、発言者本人すらもよくわかっていない言葉を受け手に投げつけているだけではないか。われわれは自らが紡いだ言葉に責任を負わねばならない。
ということで、「エッチなのに健全」という概念について考えてみよう。
まず、健全と銘打っているからには、健全なんだろう。最低限の条件として、露出した性器や胸は描かれていないということだ。しかし、露出していなかったとしても性行為を直接的に描いていたりすればそれは健全ではない。参考までに、わいせつ物頒布等罪(刑法175条)における「わいせつ物」の定義を思い出すと、①徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するものであると、1951年5月10日の最高裁判決(いわゆるサンデー娯楽事件)で示されている。本記事でもこの考え方を踏襲する。
健全である、つまりわいせつ物でないと言い切るからには、本人としては性的興奮を惹起せしめるような意図は全くないということだが、本人の意図に関わらず溢れ出てしまうエッチさがあるということだろう。思い浮かべるものは人によって異なるかもしれないが、私の脳裏に確固として浮かび上がったのはひとつだけだった。
そう、メイショウドトウちゃんである。
ウマ娘というコンテンツは性的描写を含む二次創作を禁止していることからも、コンテンツとして積極的に健全たらんとしている。それにもかかわらず、メイショウドトウちゃんはエッチである。エッチじゃない?
私は妻に、このダンボールの中にはメイショウドトウちゃんに関連するイラスト・グッズ等が入っていないかを確認した。どうやら入っていないらしい。むしろ仕事の参考書などが入っているという。
なるほど。それでは、誤解のないようにそれもダンボールに補記しておこう。以下のように表記を再々訂正した。
H 本(健全)
※仕事関係
しかしなんだろう、かえっていかがわしい雰囲気がより出てしまったのは気のせいだろうか。どうしたものかと悩んだが、こんなバカなことをしている場合ではないと気づいて荷造り作業に戻った。
なぜこの出来事を記事に起こしたかというと、なんとなく言葉というものの面白さを感じたからである。もとは、ダンボールの中に妻の本が入っているという単純な事実を言い表したかっただけなのに、それが別の意味を孕んでしまい、それを修正しようとする過程でだんだんと元の言葉の原形がなくなっていく。
柔らかい大きな塊を箱に詰める。箱を閉じようとすると、箱の一辺からその柔らかいものの一部がぷにんとはみ出し、それを押し込めようとすると今度は反対側の一辺からぷにんとはみ出る、ということを繰り返しているような感覚。言葉は「何か」を言い表すものだが、その「何か」と言葉は必ずしも一対一で完全に対応するものではない。言葉は「何か」の枠から横溢し、他の「何か」を引き連れてくる。これが言葉の厄介なところであり、面白いところだと思う。
ちなみに、上記の「H 本(健全)※仕事関係」と書かれたダンボールは、引越し完了後もなぜか開封されることなく、ずっと妻の部屋のクローゼットに眠っている。本当はエッチな本が入っていたのではないかと私は少し疑っている。